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出会い
雨……
空から落ちてくる大粒の雨…
傘にあたる音を聞いていると、みんなが拍手をしてくれているみたい。
そんな理由から
雨が降る度に心を弾ませていたのは
雨が降ると良いことがあるような気がしていたのは
一体どれくらい昔のことだろう。

雨……
今の俺にとってはただの鬱陶しい水滴にしか感じられない。


バイトから家へと帰る途中のことだった。
俺は、先日入ったバイト代をATMで下ろし、
上機嫌で外灯が照らす道を歩いていた。
先月のバイト代を早々に使いきり、
僅かに残っていた仕送りだけでここ2週間を過ごしていたので、
まさに恵みのバイト代だ。

「……あれ?雨か?」

ポツポツと冷たい物が当った気がして、掌を上に向ける。
あ、また当った…、と思った矢先。
いきなり叩きつけるような雨が降りだしてきた。

「ぎゃーーー!」

冷たい。かなり冷たい。
瞬く間に道は雨で濡れていく。
手を重ねて頭を庇い、容赦なく降りつけてくる雨から逃げる。
逃げると言っても、近くに雨を凌げるような場所も見当たらない。
とにかく、進行方向をそのままに、雨が踊り跳ねる道を猛ダッシュで駆け抜けた。
そして、道沿いに見つけた神社の境内へと逃げ込む。

「…あ〜あ。びしょびしょだよ…」

バイト先に行くときにいつも前を通る神社だ。
境内で雨宿り場所の目星をつけ、それほど大きくもない社殿の軒下へ一時避難した。
ようやく雨を凌げる場所に辿りついた。
しかし、服も髪もすでに水が滴り落ちるほどぐっしょりと濡れている。
肌に重く纏わりついて冷たいTシャツとカーゴパンツ。
先ほどまで上昇していた気分も一気にどん底だ。
バイト先から家までの道のりは約15分。
しかも、今日はバイト先と家の往復ぐらいでしか外に出ていない。
今日と言う日のたった15分間。往復しても30分間。
その間に降られるなんて、なんて運が悪いんだろう。
降り続く雨を見上げて、大きくため息を吐いた。

「あれ、あんたも雨宿り?」

突然聞こえた声にドキッと心臓が跳ねた。

慌てて辺りを見回せば、社殿の階段で腰を下ろしている人影が見えた。
薄暗い中、眼を凝らしてみれば、同じようにびしょぬれの男がそこにいた。
10代後半…いや、まだ前半だろうか。
腰を下ろしているから背丈はよく分からないが、
俺とそれほど変わらない体格だろう。
そいつは、毛先が肩まで伸びているショートの髪を煩わしげに掻き上げていた。
濡れたTシャツとジーンズがぴったりと肌にくっついていて、
体のラインをより際立たせている。
そいつは俺の視線に気づくと、大きな眼を細めて、
にこりと明るい笑みを浮かべた。

…思いっきりストライクゾーンど真ん中だ。

「こんばんは、濡れネズミ。朝も昼もあ〜んな晴れてたのに、傘を持ってる方がおかしいよな」

「…そう、だねぇ…」

濡れネズミ…か。
確かにびしょ濡れだが、同じように濡れているやつに
濡れネズミと言われるとは思ってもみなかった。
呼ばれた言葉が可笑しくて、喉の奥で控えめに笑う。

「あれ?オレ、なんかおかしな事、言った?」
「…いや。別に」

目をきょとんとさせてこちらを見る相手へ、曖昧に返答をする。
それが気に入らなかったのか、相手は不服そうに唇を尖らせた。

「なんだよ。おかしな事言ってないんだったら、笑わなくても良いだろ〜」
「喉振るわせただけじゃん。笑ってね―よ」
「喉振るわせるって……お前はカエルかよ。
…あ、雨で濡れてるし、濡れネズミ改めカエル男ってところ?」

相手は下の段に下ろしていた両足を寄せて抱え込み、歯を剥いて笑った。
…今度はカエル男かよ。
つくづく素晴らしいネーミングセンスの持ち主だ。
発言といい、仕草といい、どこか子どもっぽい。
10代ということは分かるが…いったい何歳なんだろうか。

「…お前、歳いくつ?」

気がついたら、疑問をそのまま口に出していた。
…唐突な質問だな。
案の定、相手は訝しげにこちらの様子を窺っている。

「……歳聞いてどうするんだよ。
…あ、言っとくけど、オレ、補導されるような歳じゃねーからな! ちゃんと18歳以上だぞ」

思いっきり警戒した眼で、思いっきり念を押して言われた。
歳を低く見られて補導された経験があるのだろうか。
この外見ならきっとあるのだろうな。
別にそんな意味で聞いたわけじゃないんだけど…。

「ちげーよ。純粋にいくつなのか知りたくなっただけ」
「純粋?……信じらんねー」
「………いちいちうるせえな!
ガタガタ言ってねーで、いくつかって聞かれたら、いくつか答えろ!」

あまりにも変に疑われるものだから、さすがにムカついた。
内側に溜まったムカムカを吐き出すように声を張り上げる。
相手はビクッと大きく体を跳ねさせて目を瞠った。
…ちょっと強く言いすぎたか。

「……歳は…18……」

少しの間の後、篭った小さな声が聞こえた。
相手は膝を抱え込んでいる腕に顔を半分埋めている。
ヤバイ。落ち込ませた??

「…18?じゃあ、そんなに変わらねーんだな。俺はハタチ。今が働き盛りの大学生」

なんとか暗くなった雰囲気を盛り上げようと、できるだけ明るい口調で捲くし立てた。
自分で落ち込ませて、自分で場を盛り上げてりゃ……世話ねーな…。
胸のうちでこっそりと自分自身に対してため息をつく。

「……働き盛りって……、大学生って、勉強が本分じゃねーの?」

相手は鼻から軽く息を抜いて笑った。
そして、組んでいる腕に顎を乗せ、悪戯っぽくこちらを見てきた。
ご機嫌取りは成功……なのかな?
見る限り、今はそれほど沈んではいないようだし。成功だな、うん。
だから、さっき喉仏あたりまで上がってきていた、
『18のくせにガキっぽいな』って言葉は闇に葬り去ろう。

「勉強も大事だけど…、自由に遊んで、自由に金稼ぐのなんて、今しかできねーだろ」
「そうなんだ。…じゃあ、オレも来年からは自由に遊んで、
 自由に金を稼いで、自由に勉強できるようにならないとな…」

相手は先ほどの落ち込んだ声とは打って変わって、明るい声で返してきた。
そして、足を抱えたまま体を後ろに傾け、まだ止む気配のない雨空を見上げる。

これからの未来へ向けられる、希望と決意が篭った眼だ。

言動が幼かったり、文句つけてきたり、ムカつくところもあるヤツ。
だから、こんな表情されると…少し意外というか…。

意外だから、つい見入ってしまう。
生き生きとした中にも固い意志が見え隠れする表情に、俺は見惚れた。

「…へ…っ、くしゅん!」

空を仰ぎ見ていた相手は、鼻をひくつかせて盛大なくしゃみをした。
その音にはっと我に返る。
鼻をぐずぐず言わせて擦っている相手の眼から、先ほどの眼差しは消えていた。
……さっきのは、実は錯覚だったりして。

「う〜…。冷えてきた」
「風も出てきたみたいだな…。…中、入るか?」

気分を変えるように、雨を含んだ空気を大きく鼻から吸い込む。
そして、俺の位置からだと頭上よりも少し高い位置にある本殿を顎で示す。

「中…って、開いてるのか?」
「鍵は掛かってるんだけど、戸をうま〜く動かすと、開いちまうんだな〜」

少し得意げに顎を逸らしてみる。
とは言え、俺も人から教えてもらったクチなのだが、
まあ、それは伏せておこう。
こんな風に、期待の篭った眼で見られるのも悪くないし。

「よいしょ…っと」

相手の脇を通って階段を上ると、古めいた板戸に手をかけて軽く持ち上げる。
戸の溝から板戸が外れ、引き戸なのに開き戸のような隙間が出来た。
もともとが引き戸だから僅かな隙間だが、人が通るには十分だ。

「おー、すげぇ〜!」

よほど感激したのか、相手は眼を輝かせてこちらを見ている。
…こういうのも良いな。

「ココなら十分風も凌げるんじゃね?…埃くさそうだけど」

外れかけた板戸をそのままに、本殿の中へと入る。
中に入ると、僅かに神社特有の香の匂いがした。
だが、やはり埃くさい。
光は木戸の隙間から入ってくるもののみで、
奥の方は完全に闇に閉ざされている。

「うわ…、暗いな…。なんか出てきそう…」
「奥行くと、物につまずいてこけそうだし、この辺りに居ようぜ」

不安そうな様子で中を見回している相手を尻目に、
俺は入り口からそれほど離れていない場所に腰を下ろした。
ここならまだ光も届いているし、外の様子も見れるし、ちょうど良いだろう。
ただ、木の床には埃が被っているらしく、手を置くとざらりとした感触があったが。
相手はしばらく奥の様子を窺っていたが、何も居ない事を確認すると、
俺の隣にしゃがんできた。

「奥の方ばっか気にして…。お前、暗いの…怖いんだ?」
「…ばっ…!そういうんじゃねーよ!!」

腰を下ろした途端、相手は勢い良くこちらに向き、ギッと睨んできた。
間髪のない反応。いい反射神経をしている。
でも、今の場合、すぐに反応したという事は、つまり…。

「ムキになるのは、そうだって言ってるのと同じだぞ」

あまりにも分かりやすい態度だったため、つい笑みが洩れてしまった。
追い討ちを掛けてやると、相手はゆっくりと背を屈め、下から俺を睨み上げてきた。

「何をぉ〜!」

低く唸るような声を発し、今にも飛び掛かってきそうな勢いだった。
こんな風に睨まれているのに、今にも飛び掛ってきそうなのに、
相手がムキになればなるほど楽しくなってきてしまった。
言葉一つにここまで反応するヤツも珍しいし。
悪戯心が鎌首をもたげ、ついついからかってみたくなる。

「…あ!今、奥の方で何か動いた!」

俺は不意に奥の闇へと視線を飛ばし、体を捻らせて振り返った。
相手は弾かれたように振り返り見て、俺の視線の行き先を目で辿る。

「え!?うそ!!」

表情を固くして、本殿の奥へ目を瞠らせている相手。
動揺からか、目が思いっきり泳いでいる。
……すげーおもしれぇ。
俺はどうしても耐え切れず、口を手で押さえて忍び笑いをした。
声を抑えようとしたが、喉から引き攣った声が洩れてしまった。

「…………騙したなー……」

相手はしばらく辺りに不安そうな視線を彷徨わせていたが、
ようやく俺の笑い声に気づいたらしく、ぎこちな動きでこちらに再び振り向いた。
堪えている怒りからか、口の端がヒクヒクと動いている。

「こんな古典的なことに引っ掛かる方も引っ掛かる方だろ」

どうしても笑いの形になってしまう口を覆いながら、相手の肩をポンポンと叩く。
ここまでスッキリ決まると、こっちも嬉しくなる。
でも、やっぱり可笑しい気持ちの方が大きかったりする。

「こんな暗いんだぞ!ぜんぜん奥は見えないんだぞ!不安になるのは当りま…」

ガタガタッ

当りま「え」の声と奥の壁板を揺すっているような音が重なった。
突然一時停止を押されたみたいに、そのままの姿勢で止まる。
目の前には、言葉を呑みこみ、同じように硬直しているヤツがいる。
視線だけをゆっくり奥の闇へと向けて、再び隣に移す。
隣のヤツと目が合った。
相手は唇だけを動かして「おまえ?」と聞いてきた。
確かにさっきは驚かしたけど、何も仕掛けていない状態で、
しかも離れたところで音を出すことはさすがにできない。
俺の仕業ではない事を伝えるため、小さく首を振る。

ゴトンッ

「……ひッ!」

隣でびくっと体を竦め、ヒュッと息を高く吸ったのが分かった。
先ほどよりも大きく、そして鈍く響いた音。
音だけでなく、床に何かが落ちたような振動も伝わってきた。
今度は間違えようもない。
瞬きするのも忘れて、俺たちは本殿の奥をジッと凝視した。

「……か、風で、何かが落ちたの…かな?」

極力声を潜めようとしているのか、擦れた声で相手が囁いた。
古びているとは言え、一応神社なのだから、
御神体なり何なりを祀る祭壇もあるだろう。
祭壇に乗っているモノのうちの何かが風で倒れて落ちたのかもしれない。
そう考えれば納得できる…わけないか。
風が入る場所と言ったら、俺たちが開いた隙間しか考えられないのだから。
こんな僅かな隙間から吹きこむ風で、
しかも隙間から遠く離れている場所で物が倒れるわけない。
意識を張り詰め、息を殺して本殿奥の様子を窺う。
俺たちだけでなく、空気までも緊張している。

ガタッガタゴトン!

「うわー!勝手に入ったりしてゴメンナサイ!みんなみんな、コイツのせいです!!」

更に沢山の物が倒れ落ちる音がして、隣で緊張の限界に達したヤツが叫び声を上げた。
そして、パニック状態のまま俺にしがみついてきた。

「うわっ!」

俺としては音よりも突然しがみつかれた事に思いっきり驚いてしまった。
意識が別のところに向けられているのに、いきなりしがみつかれたら…誰でも驚くって。
いや、待てよ。
いきなり音がしたのには驚いたけど、それはちょっと置いておいて…。
今、コイツ…何て言った? 全部、誰のせい…だと?

「あ!?全部俺のせいになるんかよ!!」

額を俺にピッタリとくっつけて、何も見ないようにしている相手に思わず視線を落とした。
恐怖で竦んでいる肩が小刻みに震えている。

「お前が戸外して勝手に入るから、いけないんだー!!」

相手は俺の濡れたTシャツをギュッと握り締め、悲鳴に近い声で捲くしたてた。
そりゃー、中に入ろうと言ったのも、戸を外したのも俺だけど…全部俺が悪いんかい!

「お前も一緒に入ったんだ。同罪だろ!」

納得のいかない言い分に、思わず相手の両肩をガシッと掴んだ。
驚きやら、怒りやら、恐怖やら、不安やら、いろいろな感情が内側でぐるぐると渦巻き、
自分でもよくわからない気持ちになってきた。
俺もパニックに陥ってるのか?
とりあえずは相手、そして自分も落ち着かないと。
でも、頭では分かっているのに、気持ちが言う事を聞いてくれない。

ガタガタガタッ……にゃ〜〜お

混乱する意識の中で、明らかに出所が思い浮かぶ音が聞こえた。
板を揺する音と外から聞こえてくるらしきくぐもった鳴き声。
えー……と。少し冷静になって考えてみようか。
板を揺するような音、何かが倒れて落ちる音、再び板を揺するような音と外で「にゃ〜」。
………どっかの隙間から入り込んだ猫?

「……マジデスカイ?」

たどり着いた真相の衝撃があまりにも大きくて、カタコト外国人っぽくなってしまった。
あまりにもありがちな結末。
客観的に見ていれば、鼻で笑ってしまうような結末。
でも、実際、物音の正体が分からなければ、やっぱり…ちょっと怖いかな。

「………にゃ〜……?」

パニック状態にあっても鳴き声は何とか拾ったらしい相手は
顔を伏せたままで呟いた。
さっきの驚きっぷりからすれば、この展開にまだ意識が追いついていないのだろう。

「……ネコ……?」

俺は乾いた笑みを浮かべて、ポツリと呟いた。
しーんと、静かで奇妙な間が訪れた。
俺にしがみ付いて顔を伏せていた相手はそろそろと顔を上げ、上目だけで俺を見てきた。
頭の動く気配に気づいて、俺も視線を落とす。
お互いの視線が合った。

「………ぷっ」

固まっていた表情がみるみる崩れ、相手は小さく吹きだした。
そして、俺から顔を横に背けると、肩を震わせながら大笑いをしだした。
さっきはものすごく怖がっていたから、その分の反動が大きいようだ。
あまりにも可笑しそうに笑う相手に釣られて、俺も吹き出してしまった。

「何かと思ったら、猫じゃん。びびって損した〜」
「タイミング良過ぎだわ、ネコ!」

緊張から解放された安心からか、俺たちを怖がらせてくれた物音の正体からか、
そのまま体を震わせて、二人で大笑いをした。
本殿内で笑い声が反響して、色んな方向からも笑い声が聞こえてくるみたいだ。
あまりにも間抜けだ。自分でもそう思う。笑いたければ笑えば良い。
しばらく笑っていたが、笑いすぎて苦しくなってきたので、
俺は笑うのを止めて大きく息をついた。

「それにしても、お前…、見事なリアクションだったな」

笑いすぎて軽い呼吸困難に陥ったらしく、項垂れたまま肩で息をしている相手。
だが、俺の言葉を聞くや否や、勢い良く顔を上げた。

「あんなの、驚くなって方が無理だろっ!」

相手は必死な声を張り上げ、ずいっと俺に詰め寄った。
確かに俺も驚いたけど、こいつの驚き方は…すごかったよな。
叫ぶわ、しがみ付いてくるわ。
そういえば、こいつ、まだ俺にしがみついてるままだけど、気づいていないのかな。
雨で濡れていても、Tシャツ越しに伝わってくる熱は温かいから、
俺は別にこのままでも良いんだけどな。
あ、俺も肩を掴んだままだったっけ。